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20代の安倍昭恵が可愛いと評判!若い頃を画像で紹介〜ヤンキー説を一蹴!すごい家系
2022年の7月8日、安倍元総理が凶弾に倒れ亡くなられたときのニュースはまだ記憶に新しいところですが。
夫人の安倍昭恵さんが「晋ちゃん!晋ちゃん!」と搬送先の病院で名前を繰り返し呼んだという、こんな記事を目にしました。
これには胸を打たれました。。。
そして以前から、安倍昭恵という人の名前を目にするにつけ、若い頃はとても可愛い顔の人だったんだろうなぁ~なんて漠然と思っていたことがありました。
そこで、今回はそんな安倍昭恵さんの若い頃、特に安倍晋三元総理とご結婚された頃の20代の画像とともに、実は若い頃はヤンキーだった?!なんて噂もあったそうですが、そんな噂を一蹴するほどのすごい家系だということも併せてご紹介したいと思います。
1983年(21歳)
聖心女子専門学校卒業後、電通に入社、新聞雑誌局勤務となりました。
もともとお嬢様育ちの昭恵さんは、勉強があまり好きではないと言っており、聖心女子学院初等科から中等科、高等科、へと進みました。
高校時代はヤンキーだったという説もあるようですが・・・
そもそも昭和時代のヤンキーとかツッパリって、本当に不良少年少女というイメージが強かったですよね。(笑)
昭和のツッパリ。1970年代後半から1980年にかけての不良。カーリーやアフロの女は70年代で、さすがに80年にはいなかった。男のとがった靴はヨーロピアンだっけ?カバンはチョンバッグ。取っ手を持たずに小脇に抱えるのがオシャレ!靴はかかとを踏んで履くのよ。
『ヤンキー今昔物語』より pic.twitter.com/OsWdh60ubV— 懐かしい昭和時代 (@natsukashi__) February 17, 2019
なので、昭恵さんの場合、お嬢様のちょっとした気まぐれ程度の雰囲気が、ヤンキーなんて噂にまでなったのでしょう。面白いですね。
聖心女子学院には大学もありましたが、勉強嫌いの成績では大学への進学は出来ず、専門学校へと進学しました。
卒業後の電通入社も、コネ入社との噂も。(真偽は定かではありません。)
でも、20代の若い頃はそんな噂の一つや二つ、誰しもあるようなことで・・・数々の噂も吹き飛ばすぐらい、昭恵さんはとても可愛くて、それでいてスタイリッシュでした。
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1985年(23歳)
1985年、お互いの上司の紹介でまずは食事でも♪ということで会ったそうです。
最初のデートには40分も遅刻してしまった昭恵さんは、まだ20代で若いこともあり
まさか結婚するとは思ってなかった
と思ったそうです。安倍元総理との出会いのことを語られています。
昭恵さんがとても穏やかで優しい口調で語られるお2人の出会いに、若い頃の可愛いお2人が自然と惹かれ合ったのがなんとなく想像できますね。
1986年(24歳)
1986年10月、父である安倍晋太郎外務大臣の秘書をしていた安倍晋三氏と、昭恵さんは婚約しました。
初めは20代の若い頃ということもあり、結婚するつもりはなかった昭恵さんでしたが、自分とは全然違う世界の「政界」という場で活躍する安倍晋三氏に惹かれていったそうです。
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1987年(25歳)
1987年6月9日、高輪プリンスホテルで安倍晋三氏と昭恵さんの結婚式が盛大に行われました。
20代の若い頃に結婚するとは思っていなかった相手と、結局このような盛大な結婚式を挙げるまでとなった昭恵さん。
生活も、これまでとは一変したでしょうね。
これは、1987年冬に総裁選出馬を表明した父の安倍晋太郎氏と山口県長門市油谷に帰郷した際の写真です。
昭恵さんも、結婚後初めての嫁としての大仕事だったことでしょう。
晋太郎氏にとっては、息子の晋三氏を自分の後継者であることを公表し、世間に印象付けるための行動だったようです。
1988年(26歳)
結婚後の2人は、不妊治療を試みたり、養子縁組も考えたというほど子供が授かることを心待ちにしていたようです。
Japan PM’s wife in rare interviewとして「文芸春秋」でのインタビュー記事をのちにアメリカのBBCが報じたものがありました。
日本首相夫人レアインタビュー
安倍昭恵さん、夫と養子縁組を検討
日本の新しいファーストレディーは、彼女の不妊症について異常に率直な雑誌のインタビューを行った。
安倍晋三首相と 25 歳で結婚した安倍昭恵さん(44 歳)は、夫妻に子供がいないことについての質問に答えることにしたと語った。
安倍首相は、出生率の急落を食い止めるために、より多くの子供を持つことを日本人に奨励してきました。
夫婦が養子縁組を考えていたという暴露を含む安倍夫人のコメントは、日本では非常に珍しい。
月刊誌とのインタビューで、安倍夫人は、子供を産むというプレッシャーにさらされていたと語った。
「もちろん、政治家の妻として、私は彼の選挙区からも含め、多大な圧力を受けていました」と彼女は文藝春秋に語った。
「年齢のせいで難しくなったので、頑張れと言われなくなりました。でも、ごく初期の段階で、不妊治療を受けていました」
日本の出生率(女性が生涯に産む平均的な子供の数)は、2005 年に 1.25 人という記録的な低さまで落ち込みました。
結局、安倍晋三氏と昭恵さんは、残念ながら子宝には恵まれませんでした。
20代のまだ若い頃に政治家の妻となり、後継者も必至という世界ですから、いろいろと心労も多かったでしょう、お察しします。
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1992年(30歳)
1992年発行の安倍晋三氏後援会会報誌「フロンティア01号」に、後援会の人々と「ぶどう狩り」に行った様子が掲載されています。
昭恵さんも精力的に夫の活動の支えになっている様子が伺えますね。
1993年(31歳)
1991年5月15日に父の安倍晋太郎氏が急死したことにより、安倍晋三氏は跡継ぎとして立候補することを決意しました。
そして、1993年6月の衆議院議員総選挙で旧山口1区より立候補し、見事初当選しました。
これもまた、昭恵さんの内助の功があったと言えるでしょうね。
夫・晋三氏の隣でとても嬉しそうに万歳されています。
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安倍昭恵のすごい家系
昭恵さんの旧姓は松崎といい、生家は森永製菓創業家の家系なのです!
創業者の森永太一郎さんと、松崎半三郎さんは共同経営者であり、その後、森永家と松崎家が交互に社長を務めているそうです。
で、その4代目の社長・松崎昭雄氏の娘が昭恵さんということなのです。
そして、昭恵さんのお母さん・恵美子さんは、森永太一郎さんのお孫さんにあたり創業者の孫同士が結ばれ、生まれた子供が昭恵さんというわけです。
このご両親の結婚が、恋愛かお見合いかは定かではないそうです。
そして、昭恵さんは2人姉弟で8歳下の弟・松崎勲さんは、あのウイダーインゼリーの生みの親なんだそうですよ!
と、いうことで昭恵さんは筋金入りのお嬢様なのです。
確かに、ネットを検索すると、ヤンキー女子高生説や20代の若い頃はディスコに夜な夜な繰り出し夜遊びをしていただとか、旅行やテニスなど好きなことをしてイケイケだった、などと情報があるようです。
これほどのお嬢様育ちとなると、たまには羽目を外したくなるのではないでしょうかね?!(笑)
そんなレベルだと私は思います。
ロックな安倍昭恵
安倍昭恵さんは、とても音楽好きでロックな人だな~と思いました。
ヴィジュアル系ロックバンドの人とポーズを決めて写真を撮ったり♪
久しぶりに首相公邸にお邪魔してきました。僕が世の中の為に出来ることはもっと沢山ありそうです。写真は僭越ながら昭恵夫人と!
ファーストレディのメロイックサインで日本を明るく!
Versaillesも完全復活して世界を薔薇色にします! pic.twitter.com/dtgcJEoWey— 🇯🇵🇫🇷Versailles KAMIJO (@KamijoOfficial) July 22, 2016
まぁ、過去にはこんな噂も流出しましたが(苦笑)
その頃、妻は。
安倍昭恵さん 深夜2時に布袋寅泰呼び出し酔って首筋にキスhttps://t.co/uOBvLj0dL6 pic.twitter.com/SHDkpsexkg
— 天野譲二@『幻の未発売ゲームを追え!』発売中 (@TOKYOMEGAFORCE) February 25, 2021
そもそも、安倍昭恵さんはお酒がお好きのようですね♪
東京の神田に「uzu」というお店をだしていたそうです。(※現在は閉店)
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安倍昭恵・プロフィール
- 名 前:安倍 昭恵(旧姓:松崎)
- 生年月日: 1962年 6月 10日
- 身長: 168cm
- 体重: 非公表(約50~55kg)
- 出身地:東京都
- カテゴリ: 元内閣総理大臣夫人
- 学 歴:聖心女子専門学校英語科卒業
- 血液型: O型
- 干支(えと): 寅(とら)
- 星座: ふたご座
- 趣味/特技: 農作業、ランニング、ゴルフ、薙刀、フラダンス
さいごに
20代の安倍昭恵さんの若い頃、可愛かっただろうなぁ~と気になり、画像とともにすごい家系のエピソードもご紹介しました。
いろいろ、若い頃から悪目立ちな噂なんかもネット上では流出しているようですが。
昭恵さんのおっとりとした話し方や、やはり何と言っても森永製菓の家系という立派な環境で育ったことやなんかも考えると、きっとホンモノのワルではないのだと思います。
最後に、このニュースを聞いてまた胸が痛くなり涙が止まりませんでした。
本当はもうダメだと、運ばれた奈良県立医科大学付属病院の先生方も、せめて妻の昭恵さんが到着するまでは、と懸命に治療にあたり・・・
昭恵さんも、遺体に頬ずりし手を握ると握り返してくれたような気がしたのだとか。
告別式では、安倍元総理のピアノ演奏「花は咲く」に合わせて妻の昭恵さんが歌う動画が流されたそうです。
会場に響く2人の歌声は参列者の涙を誘いました
一般には非公開の映像のため、探してみたら安倍元総理のピアノ演奏の動画がありました!
感動します。本当に残念で悔しいですよね。
20代に出会って、若い頃から可愛い安倍昭恵さん。夫の安倍晋三氏をこんなに早くに亡くしてしまい・・・お2人に敬意を表して、告別式での前総理・菅義偉氏の弔辞をここにご紹介します。
安倍昭恵さんには、どうかこれからも20代の若い頃と変わらず、可愛いおばさんでいて欲しいという願いを込めて。
七月の、八日でした。
信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。
あなたにお目にかかりたい、同じ空間で、同じ空気を共にしたい。
その一心で、現地に向かい、そして、あなたならではの、あたたかな、ほほえみに、最後の一瞬、接することができました。
あの、運命の日から、八十日が経ってしまいました。
あれからも、朝は来て、日は、暮れていきます。
やかましかったセミは、いつのまにか鳴りをひそめ、高い空には、秋の雲がたなびくようになりました。
季節は、歩みを進めます。
あなたという人がいないのに、時は過ぎる。
無情にも過ぎていくことに、私は、いまだに、許せないものを覚えます。
天はなぜ、よりにもよって、このような悲劇を現実にし、いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか。
口惜しくてなりません。
哀しみと、怒りを、交互に感じながら、今日の、この日を、迎えました。
しかし、安倍総理…と、お呼びしますが、ご覧になれますか。
ここ、武道館の周りには、花をささげよう、国葬儀に立ちあおうと、たくさんの人が集まってくれています。
二十代、三十代の人たちが、少なくないようです。
明日を担う若者たちが、大勢、あなたを慕い、あなたを見送りに来ています。
総理、あなたは、今日よりも、明日の方が良くなる日本を創りたい。
若い人たちに希望を持たせたいという、強い信念を持ち、毎日、毎日、国民に語りかけておられた。
そして、日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲きほこれ。―これが、あなたの口癖でした。
次の時代を担う人々が、未来を明るく思い描いて、初めて、経済も成長するのだと。
いま、あなたを惜しむ若い人たちがこんなにもたくさんいるということは、歩みをともにした者として、これ以上に嬉しいことはありません。
報われた思いであります。
平成十二年、日本政府は、北朝鮮にコメを送ろうとしておりました。
私は、当選まだ二回の議員でしたが、「草の根の国民に届くのならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と言って、自民党総務会で、大反対の意見をぶちましたところ、これが、新聞に載りました。
すると、記事を見たあなたは、「会いたい」と、電話をかけてくれました。
「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため、一緒に行動してくれれば嬉しい」と、そういうお話でした。
信念と迫力に満ちた、あの時のあなたの言葉は、その後の私自身の、政治活動の糧となりました。
その、まっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は、直感しました。
この人こそは、いつか総理になる人、ならねばならない人なのだと、確信をしたのであります。
私が、生涯誇りとするのは、この確信において、一度として、揺らがなかったことであります。
総理、あなたは一度、持病が悪くなって、総理の座をしりぞきました。
そのことを負い目に思って、二度目の自民党総裁選出馬を、ずいぶんと迷っておられました。
最後には、二人で、銀座の焼鳥屋に行き、私は、一生懸命、あなたを口説きました。
それが、使命だと思ったからです。
三時間後には、ようやく、首をタテに振ってくれた。
私はこのことを、菅義偉生涯最大の達成として、いつまでも、誇らしく思うであろうと思います。
総理が官邸にいるときは、欠かさず、一日に一度、気兼ねのない話をしました。
いまでも、ふと、ひとりになると、そうした日々の様子が、まざまざと、よみがえってまいります。
TPP交渉に入るのを、私は、できれば時間をかけたほうがいいという立場でした。
総理は、「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見で、どちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです。
一歩後退すると、勢いを失う。
前進してこそ、活路が開けると思っていたのでしょう。
総理、あなたの判断はいつも正しかった。
安倍総理。
日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など、難しかった法案を、すべて成立させることができました。
どのひとつを欠いても、我が国の安全は、確固たるものにはならない。
あなたの信念、そして決意に、私たちは、とこしえの感謝をささげるものであります。
国難を突破し、強い日本を創る。
そして、真の平和国家日本を希求し、日本を、あらゆる分野で世界に貢献できる国にする。
そんな、覚悟と、決断の毎日が続く中にあっても、総理、あなたは、常に笑顔を絶やさなかった。
いつも、まわりの人たちに心を配り、優しさを降り注いだ。
総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした七年八か月。
私は本当に幸せでした。
私だけではなく、すべてのスタッフたちが、あの厳しい日々の中で、明るく、生き生きと働いていたことを思い起こします。
何度でも申し上げます。
安倍総理、あなたは、我が日本国にとっての、真のリーダーでした。
衆議院第一議員会館、千二百十二号室の、あなたの机には、読みかけの本が一冊、ありました。
岡義武著『山県有朋』です。
ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました。
そしてそのページには、マーカーペンで、線を引いたところがありました。
しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。
総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ深い哀しみと、寂しさを覚えます。
総理、本当に、ありがとうございました。
どうか安らかに、お休みください。令和四年九月二十七日 前内閣総理大臣、友人代表 菅義偉
合掌
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