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正直、今の日本の政治に興味があると言えば噓になります。(笑)
学校で習ったくらいの知識で、ニュースも流し見をする程度。
そんな私が、なぜか以前から気になっていた政治家がいます。
それは、菅義偉さん。
先日、政界引退というニュースを耳にして、「あぁ、そうなんや・・・」と少し胸の奥が熱くなったんですよね。

今回は、政界で活躍され総理大臣にまで上り詰めた菅義偉さんの若い頃を画像で振り返ってみたいと思います。
知れば知るほど心を動かされるストーリーがいっぱいです。
菅義偉さんの若い頃
1948年(昭和23年)12月6日、秋田県のイチゴ農家の長男として生まれました。
家族は、父・母・姉2人と弟がいます。
母と叔父・叔母は元教員で、2人の姉も高校の先生で教員一家だったそうです。
そんな菅義偉さんの20代の若い頃から、71歳で第99代内閣総理大臣になるまでを各年代別に、私が心を動かされたエピソードなども含めてご紹介したいと思います。
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1973年(24歳)の菅義偉
秋田の農家で生まれ育った菅義偉は、高校卒業後に集団就職で上京し、段ボール工場で働きはじめました。
しかし、「視野を広げるため、大学でもっと学びたい」という思いから、アルバイトをしながら勉強し、法政大学に入学しました。
法政大学を選んだのは、当時、私立で最も学費が安かったから。
幼い頃から自然豊かな秋田の地で、川遊びや野球を楽しんでいた菅義偉。法政大学在学中は、「剛柔流空手道部」に在籍し、三段の段位まで取得しています。部では、第10代の副将まで務めました。
大学については複数の週刊誌で「夜学ではないのか」と報じられ、2016年のインタビューで本人が

メディアで二つくらい、法政大学の夜間卒だと書いているのがありましたが、昼でです。
と述べています。この淡々としたところがまた、菅さんらしいですね。^^
そして、1973年法政大学を卒業。菅義偉24歳のときです。
1975年(26歳)の菅義偉
大学卒業後、いったんは電気通信設備会社に就職しました。が、サラリーマン生活で、
「世の中を動かしているのは政治だ。これに人生をかけてみたい!」
と政治家を志します。
しかし、秋田から出てきた青年には何のツテもなく、大学の学生課で法政大学OBの国会議員事務所を紹介され、小此木彦三郎元通産大臣の秘書となり11年間勤めました。
小此木氏の三男・小此木八郎氏は、当時の菅義偉をこう回顧します。

昔でいう書生さんのようだった。近くのアパートに住み、毎朝おやじを迎えに来て、朝飯を食べて外に出る。当時7人の秘書がいて家族同然でしたけど、一緒にご飯を食べていたのは菅さんだけでした。
父は古風な人で、菅さんはよく怒鳴られていました。
こうして、菅義偉は若い頃から都会へ憧れ、経済的困難にも立ち向かい向上心を持って勉学に励み、政治家として歩み始めたのです。
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1980年(31歳)の菅義偉
1980年5月、小此木彦三郎氏の自宅に、家事手伝いとして住み込みで働いていた真理子さんと結婚します。 

出しゃばらず、芯はとても強い。夫になる人にはアドバイスができ、ただただ仕えるというよりも、よいパートナーになれる人だ。
1984年(35歳)の菅義偉
この年、菅義偉は小此木氏の通商産業大臣の就任に伴い、大臣秘書官となりました。
大臣には、「事務秘書官」と「政務秘書官」という2人の秘書官が付きます。
事務秘書官は大臣の公務を補佐する仕事で、各省庁の職員から選ばれます。
政務秘書官は大臣の政治家としてのすべてを補佐する仕事で、大臣が自らの権限で連れてくることができます。
選挙区の対応や、陳述の対応、政治的な案件はすべて政務秘書官が対応するのです。
これに任命された菅義偉は、小此木氏からの厚い信頼を受けていたのでしょうね。
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1987年(38歳)の菅義偉

高校生のときに菅さんの結婚式に参加した。
「本当に一生懸命ですぐ靴を擦り減らすので、何足か送ってあげた」
という来賓の挨拶を聞いて、子どもながらに“すごい人だな”と思った。
選挙に有利とされる「地盤=後援会」「看板=知名度」「カバン=資金力」なしでの挑戦。
これは、アメリカのエイブラハム・リンカーンが好んで使った有名な言葉です。
“どんな困難な状況でも、やり遂げようという強い意志があれば、必ず解決策や成功への道が開ける” ということわざです。
1996年(47歳)の菅義偉
国政へ参加するため市会議員を辞職し、1996年に衆議院議員として初当選を果たします。
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2002年(53歳)の菅義偉
この年の1月、国土交通大臣政務官に就任しました。
- ETCの夜間割引
- アクアラインの大幅値下げ
- 港におけるワンストップサービス化
これらの実現に取り組みました。
2003年(54歳)の菅義偉
この年の9月、経済産業大臣政務官に就任しました。
- 北朝鮮経済制裁シュミレーションチームの座長として万景峰号の入港禁止
- 上層部にしか届かない高級品や送金の禁止
- 振り込め詐欺撲滅ワーキングチームの座長としてプリペイド携帯販売禁止法の成立
などの実現に尽力しました。
そして、党国会対策副委員長に就任した際も、困難な国会運営のまとめ役として多大な働きをしました。
2005年(56歳)の菅義偉
2005年、菅義偉は総務副大臣に就任しました。
- ふるさと納税
- NHK改革
- 夕張問題
- 携帯電話の番号持越し制度
- 地方分権改革法案
- 郵政民営化の実施
などをはじめとする、1年の間で19もの法律を作り、実力派大臣となりました。
この年、総務副大臣の菅義偉は、同志社大学を卒業後サラリーマンを経て25歳で菅義偉の事務所に入った新田章文を秘書に採用しました。

運転手、かばん持ちから始まり、キャリアを積み上げてきました。
その下積みは、「菅学校」と呼ばれるほど、極めて過酷だったようです。
そんな新田さんは、秘書官を20年間務め菅さんを支えました。
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菅さんには3人の子どもがいますが、なぜ秘書であった新田さんを後継者に選んだのでしょう?

私と同じく地縁血縁のない中、地方から出てきて秘書となり、誠実であり、勉強熱心であり、現場目線で次の横浜、日本のために働いてくれると確信しています。
こう新田さんを評しています。
自分と同じように、ひとりのごく普通の若者が熱い思いを持って政治の世界へと飛び込み、長い下積みを経て表舞台へと出て政治を動かしてゆく…。
そんな新田さんに「希望」を託したのだと思います。
これこそが菅さんの掲げてた「長老支配・既得権益」の打破 を身をもって示されたのではないでしょうか。
潔い引き際だと、私は感動しました。
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2006年(57歳)の菅義偉
この年の菅義偉は、第一次安倍内閣で総務大臣に任命され、初入閣を果たしました。
2012年(64歳)の菅義偉
2012年12月 第二次安倍内閣では、内閣官房長官に任命されました。
記者会見や様々な政策の調整役として奔走し、テレビで見ない日はない存在となりましたよね。
2016年7月8日 官房長官在任期間歴代1位となりました。
2019年(70歳)の菅義偉
2019年4月1日、首相官邸での記者会見で「新しい元号は “令和” であります」と発表しました。
2019年5月1日、日本の歴史的節目である皇位継承が行われ、「令和」という新しい時代の幕開けとなりましたよね。
菅さんのこのシーンは、まだ私の記憶にも新しいです。
世間では、「令和おじさん」なんて言われたのも、菅さんの温厚なキャラからなんだと思います♪
2020年(71歳)の菅義偉
2020年9月16日、 岸田文雄(89票)、石破茂(68票)を破り、菅義偉が377票の大差を得て、第99代内閣総理大臣に指名されました。
- 新型コロナ対策
- 携帯電話料金の値下げ
- 不妊治療の保険適用
- デジタル庁の設置
- 2050年脱酸素社会の実現
など、2021年に総裁任期を満了するまで、様々な改革に取り組みました。
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さいごに
政治に興味のない私が、なぜか気になっていた政治家が菅義偉。
実はそのきかっけは、たまたまタイトルに惹かれて読んだ「頭に来てもアホとは戦うな!」という本だったんですよね。
|
頭に来てもアホとは戦うな! 人間関係を思い通りにし、最高のパフォーマンスを実現 [ 田村耕太郎 ] 価格:1430円 |
本の筆者・田村耕太郎さんが出会った人の中で、「アホじゃなかった素晴らしい人」と紹介されている中のひとりに菅義偉という名前があったんです。
威張るのではなく他人をリスペクトし、手柄を自分のものにしない人、そんなようなことが書かれてありました。

菅さんほど誰に聞いても態度が変わらない政治家はいない。

私もこれまでに仕事で接してきた人たちの多くが、ちょっと偉くなって人の上に立つ立場になる人ほど、なんでこんな潜在的アホなんやろ?!と思うようなことがあり、菅さんの淡々とした
静かな強さ
にとても強く心を動かされました。
田村耕太郎氏著の「頭に来てもアホとは戦うな!」の文中で、体現者として菅義偉氏が取り上げられていたことは、記憶に新しい。清濁併せ呑み、政治判断をしていく流れは、読んで良かったと思える。
— 上野徹 (@ueno_toru421) December 25, 2021
そんなことから、菅さんの若い頃の軌跡をたどってみるといろいろなエピソードがあり
「ああ、こういうところなんや」
と、腑に落ちた気がしました。
温厚で物静かな中にも強い信念があり、それこそが菅さん独特の人心掌握術なんだろうな、と。
世襲政治家の多いこの日本で、たたき上げの苦労人である菅さんが総理大臣にまで上り詰め、今、引退というニュースを耳にして・・・

ほんとうにお疲れさまでした。
と思い、少し胸の奥が熱くなりました。
さいごに↓ここでもご紹介しましたが

私がほんとうに感動した、菅さんの安倍晋三元総理の告別式での「友人代表として追悼の辞」です。
私がこれをどうしてももう一度ご紹介したかったのは、政界の悲しいニュースの切り取りではなく、ひとりの人としての菅さんの人柄や想いを感じたからです。
ぜひ、ご覧ください。
七月の、八日でした。
信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。
あなたにお目にかかりたい、同じ空間で、同じ空気を共にしたい。
その一心で、現地に向かい、そして、あなたならではの、あたたかな、ほほえみに、最後の一瞬、接することができました。
あの、運命の日から、八十日が経ってしまいました。
あれからも、朝は来て、日は、暮れていきます。
やかましかったセミは、いつのまにか鳴りをひそめ、高い空には、秋の雲がたなびくようになりました。
季節は、歩みを進めます。
あなたという人がいないのに、時は過ぎる。
無情にも過ぎていくことに、私は、いまだに、許せないものを覚えます。
天はなぜ、よりにもよって、このような悲劇を現実にし、いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか。
口惜しくてなりません。
哀しみと、怒りを、交互に感じながら、今日の、この日を、迎えました。
しかし、安倍総理…と、お呼びしますが、ご覧になれますか。
ここ、武道館の周りには、花をささげよう、国葬儀に立ちあおうと、たくさんの人が集まってくれています。
二十代、三十代の人たちが、少なくないようです。
明日を担う若者たちが、大勢、あなたを慕い、あなたを見送りに来ています。
総理、あなたは、今日よりも、明日の方が良くなる日本を創りたい。
若い人たちに希望を持たせたいという、強い信念を持ち、毎日、毎日、国民に語りかけておられた。
そして、日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲きほこれ。―これが、あなたの口癖でした。
次の時代を担う人々が、未来を明るく思い描いて、初めて、経済も成長するのだと。
いま、あなたを惜しむ若い人たちがこんなにもたくさんいるということは、歩みをともにした者として、これ以上に嬉しいことはありません。
報われた思いであります。
平成十二年、日本政府は、北朝鮮にコメを送ろうとしておりました。
私は、当選まだ二回の議員でしたが、「草の根の国民に届くのならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と言って、自民党総務会で、大反対の意見をぶちましたところ、これが、新聞に載りました。
すると、記事を見たあなたは、「会いたい」と、電話をかけてくれました。
「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため、一緒に行動してくれれば嬉しい」と、そういうお話でした。
信念と迫力に満ちた、あの時のあなたの言葉は、その後の私自身の、政治活動の糧となりました。
その、まっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は、直感しました。
この人こそは、いつか総理になる人、ならねばならない人なのだと、確信をしたのであります。
私が、生涯誇りとするのは、この確信において、一度として、揺らがなかったことであります。
総理、あなたは一度、持病が悪くなって、総理の座をしりぞきました。
そのことを負い目に思って、二度目の自民党総裁選出馬を、ずいぶんと迷っておられました。
最後には、二人で、銀座の焼鳥屋に行き、私は、一生懸命、あなたを口説きました。
それが、使命だと思ったからです。
三時間後には、ようやく、首をタテに振ってくれた。
私はこのことを、菅義偉生涯最大の達成として、いつまでも、誇らしく思うであろうと思います。
総理が官邸にいるときは、欠かさず、一日に一度、気兼ねのない話をしました。
いまでも、ふと、ひとりになると、そうした日々の様子が、まざまざと、よみがえってまいります。
TPP交渉に入るのを、私は、できれば時間をかけたほうがいいという立場でした。
総理は、「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見で、どちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです。
一歩後退すると、勢いを失う。
前進してこそ、活路が開けると思っていたのでしょう。
総理、あなたの判断はいつも正しかった。
安倍総理。
日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など、難しかった法案を、すべて成立させることができました。
どのひとつを欠いても、我が国の安全は、確固たるものにはならない。
あなたの信念、そして決意に、私たちは、とこしえの感謝をささげるものであります。
国難を突破し、強い日本を創る。
そして、真の平和国家日本を希求し、日本を、あらゆる分野で世界に貢献できる国にする。
そんな、覚悟と、決断の毎日が続く中にあっても、総理、あなたは、常に笑顔を絶やさなかった。
いつも、まわりの人たちに心を配り、優しさを降り注いだ。
総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした七年八か月。
私は本当に幸せでした。
私だけではなく、すべてのスタッフたちが、あの厳しい日々の中で、明るく、生き生きと働いていたことを思い起こします。
何度でも申し上げます。
安倍総理、あなたは、我が日本国にとっての、真のリーダーでした。
衆議院第一議員会館、千二百十二号室の、あなたの机には、読みかけの本が一冊、ありました。
岡義武著『山県有朋』です。
ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました。
そしてそのページには、マーカーペンで、線を引いたところがありました。
しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。
総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ深い哀しみと、寂しさを覚えます。
総理、本当に、ありがとうございました。
どうか安らかに、お休みください。令和四年九月二十七日 前内閣総理大臣、友人代表 菅義偉
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