黒田博樹の評価がスゴイ!アンビリーバボーな決断力とは

日常

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2016年、広島カープを25年ぶりの優勝に導いた立役者の一人、黒田博樹さんをご存知ですか?

2016年10月18日、現役引退を表明。20年間の現役生活にピリオドを打ちました。

先日たまたま、これまで語られなかった彼の知られざる半生にスポットを当てたテレビ番組を見たのです。

私は、スポーツをすることやテレビ観戦は好きな方です。広く浅くというタイプなので、あまり詳しくはありませんが、広島の黒田選手がメジャーでも活躍したプロ野球選手だということは知っています。

けれども、この黒田博樹という人物の評価がこれほどスゴイものだとは、知らなかったのです。

男として、いえ、人間として、「情」を重んじて様々なありえない決断をしてきた彼の人生に、私はとても感動しました。そして、彼の引退は海外でも報じられ、彼の生き様が世界中の人々の心を動かしているということに。

今回は、ぜひこのストーリーをあなたにも知ってもらいたいと思い、ここにご紹介します。

私が感じたのと同じような感動を一緒にしてみませんか?

世界が評価した生き様

黒田博樹選手の引退は、海外でも報じられました。そして世界が注目をしたのです。

As the Kyodo News relays, Hiroki Kuroda announced that after the forthcoming Japan Series between his Hiroshima Carp and the Nippon Ham Fighters, he’ll retire at the conclusion of an illustrious career that has netted him more than 200 wins between Japan’s NPB and Major League Baseball in the US.

200勝を超える投手としての輝かしいキャリアに終止符を打ち引退を発表

引用元:https://www.bostonglobe.com/sports/2016/10/18/stitches-tuesday-oct/cg06zINkJheIUGc09VJ3lO/story.html

By remaining with Dodgers, Hiroki Kuroda stayed true to himself.

Pitcher’s refusal to waive no-trade clause reflects different value system of players born in Japan.

黒田は自分の信念を貫いた 日本生まれの選手が異なる価値観を示した

引用元:http://articles.latimes.com/2011/aug/04/sports/la-sp-0805-dodgers-kuroda-20110805

なぜ、黒田選手がこんなにも海外で取り上げられ評価されたのでしょうか?それには、こんなエピソードがあったそうです。

episode 1

2008年から7年間、メジャーリーグで活躍した黒田選手。話はその1年前、ドジャース入団交渉のときにとさかのぼります。

当時、6年で60億円という契約を勝ち取った松坂投手と同等の実力と評価されていた黒田選手。代理人からは、4年契約で年棒約50億円の提示が!
それを、3年に減らして欲しいと言ったそうなのです。
契約を1年短くする・・・それによって、年棒の総額が約10億円も減ることになるというのにです。その理由は

黒田博樹
黒田博樹

まだメジャーでなんの実績も上げていないのに、何年も実績を積んだ選手より条件がいいなんて納得ができない。

というものでした。このありえない決断にアメリカの球団関係者は驚いたと言います。

episode 2

ドジャースで3年間28勝30敗という安定した成績を残し、活躍を見せた黒田選手。

さらに1年の契約を結びました。そして、4年目の夏。
戦力強化のためシーズン中でも有力選手を引き抜くことが多いというアメリカのメジャーリーグ。優勝をねらっているチームが黒田博樹を欲しいというのです。
世界最高峰のメジャーでの優勝!選手には最高の栄誉です。

「オファーが来たら行く?」の記者の質問に

黒田博樹
黒田博樹

興味ないね、行ったばかりのチームで優勝しても素直に喜べない。

というものでした。この決断にドジャースファンは喜び、より一層の声援を送ったと言います。

自分の人生というものにおいて、アンビリーバボーな決断を下した黒田選手。

きっと目の前にあると誰もが手に入れたいと思ってしまう「地位」「名誉」「お金」。そのどれにもとらわれないなんて。本当にブレない「男」なのでしょうね。凄い!

ドジャースでの活躍を評価された黒田選手は、2012年からニューヨークヤンキースに移籍しました。そして、3年連続10勝以上を上げるという快挙を成し遂げたのです。

しかし、ド肝を抜いた彼の決断は、まだまだこれだけではなかったのです。
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ありえない決断

2014年、黒田選手が他球団と契約できる権利を獲得すると、高額のオファーが殺到しました。かつて在籍していたドジャースは、年棒19億円、パドレスにおいては 20億円!!

黒田博樹が次に袖を通すユニフォームはどこか?

球界のだれもが興味を示していました。ところが、黒田選手は・・・広島カープに戻ったのです!!

アメリカでの年棒の4分の1、推定年棒5億円という契約で。

黒田博樹
黒田博樹

広島に帰ってきたい気持ちと、帰らないといけないという気持ちがあった

この、常識では考えられない決断力には彼の半生が影響していたようなのです。

「情」を重んじた半生

黒田選手は、1975年大阪に生まれました。

お父さんは、南海ホークス(現ソフトバンク)で外野手として活躍したプロ野球選手。お母さんは、オリンピックを目指した砲丸投げの選手だったそうです。アスリート一家だったんですね。

そして、甲子園に出たいという夢から上宮高校へと進学しました。

当時の上宮高校は、何人ものプロ野球選手を輩出したエリート校。そのため、私なんかにはとうてい想像もつかないような、とても苦しい練習だったそうです。

しかし、苦しい練習にも耐えていけた訳をのちに黒田選手はこう語っています。

自分がお世話になると決めた監督から命じられたことならば、どんなことがあってもその教えは守るべきで、上宮高校を選んだ以上、黙ってそれに従う。

引用元:「決めて断つ」黒田博樹・著

決めて断つ (ワニ文庫)

筋を通すことの大切さ それを母から教わったと。体育の先生であり子育てには熱血だったと黒田選手が語る、アスリートのお母さんの教えが影響していたのでしょう。

高校時代は、3年間補欠。甲子園の夢もかなわなかった。

それでも野球をあきらめず、野球の名門・専修大学へと進学します。またまた、猛練習に耐え続けました。その頃の心の支えとしていた言葉が、西郷隆盛が読んだ漢詩の一説だそうです。

「耐雪梅花麗」(雪に耐えて梅花うるわし)
意味:苦しまずして 栄光なし

高校時代、投げても打たれる。監督からは常に走っとけと言われ、朝から晩までずっと走るだけの野球生活。

今、苦しい思いをしているけど、いつかは花が咲くときもあるんじゃないか、と。深いですね。

そんな苦しい野球生活の中、1994年大学2年で140キロの急速を超えるまでに成長しました。

ちょうどその頃、グランドにたびたび姿を見せる男性がいた。それが、広島カープのスカウトマンでした。

そして、1996年大学4年には急速150キロを超え、チームのエースとなり、他球団のスカウトからも注目されるようになりました。

しかし、当時採用されていた逆指名制度(選手が希望するチームに入団できる制度)を利用し、黒田博樹は 島カープに入団したのです。

黒田博樹
黒田博樹

2年生の頃から声をかけるわけでもなく、球場に足を運んでずっと自分を見てくれていた。

という理由で。

実は、当時の規定では、アマチュアの学生選手に声をかけることは禁止されていたのです。それでも、金銭などの条件面ではなく、自分を見てくれていたスカウトマンへの気持ち、すなわち「情」で決めたというのです。

2006年、黒田選手はプロ生活10年目を迎えました。彼がこれほどまでの評価を得るエピソードはまだまだ続きます。

特定の親会社を持たない・企業に全面依存しない広島カープは、資金力の乏しい市民球団。主力選手の高額な年棒を支払うことが困難になり、手放すしかない。

実績を積んだ選手が他球団と交渉できるFA(フリーエージェント)権を行使すると、引き止めることはできない。事実、黒田選手の獲得に国内外の複数の球団が乗り出していました。

ファンの気持ちは、黒田選手の 移籍残留 かに集まっていました。

無名の自分を育ててくれたカープとカープファン・・・黒田選手は悩んでいました。そんな状況を知るファンは、ホーム最終戦、黒田選手が登場すると、スタンドに横断幕!!

我々はともに闘ってきた
今までもこれからも・・・
未来へ輝くその日まで
君が涙を流すなら
君の涙になってやる
カープのエース黒田博樹

この文字を打ちながら、私も感動で手が震えました。

本当は残留して欲しい。でも移籍しても応援するよ、というファンの切なく熱いエール!! 今までに、こんなファンのメッセージってあったでしょうか?

ファンは、これが黒田選手を見る最後の姿だと思って試合を観戦したことでしょう。心では泣きながら。そして黒田選手の答えは。。。

残 留 !!

すばらしい!! ファンの気持ちを考えると、私まで涙が出てきそうな感動の決断です。

黒田選手は、国内での移籍は考えていなかったそうです。勝負に勝つためには、厳しいボールを投げなければいけないこともある。今まで一緒に戦ってきた相手にそれはなかなか出来ないんだと。

勝負にかけるプロ選手にしては、意外な答えですね。きっと優しいんでしょうね、心根が。

世界の舞台で戦いたいという思いが強くなったという黒田選手は、ついに、メジャーリーグへと移籍することを決断しました。

2007年12月ドジャース入団会見

2007年12月ドジャース入団会見

2007年、黒田選手はカープのユニフォームを脱ぎました。米・大リーグ、ドジャースの入団会見で、広島のファンへのメッセージを求められた黒田選手の涙を、言葉を詰まらせた姿を、テレビで見て胸がとても熱くなりました。

そして、彼の決断力は、このあと海外でも人々に感動を与え続けていくのです。
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心を交わした選手とのエピソード

ドジャースに入団して2年目の2009年、黒田選手に悲劇がおこりました。

バッターからの打球が、黒田選手の頭を直撃したのです! そのまま病院に搬送され、長期離脱を余儀なくされました。

入院中、黒田選手を心配したその相手打者は、自分を強く責め、「人にケガをさせてまで、メジャーで野球を続けようとは思わない」という手紙を送ってきたそうです。もちろん、故意ではないこともわかっている黒田選手は、

「自分が引退したとき、君という名選手にボールを当てられたことを自慢できる選手になって欲しい」

と返事を返したのです。

ケガをしていながらも、相手を気遣うこの紳士ぶり! 人と人は言葉ではない、「情」 でつながるのだと思い知らされます。

黒田選手と心を交わした選手との話は、まだあります。

ドジャース不動のエース、現役最強の左腕と言われたクレイトン・カーショー。年は13歳も下だけれど、入団時期が同じ。毎日キャッチボールをするパートナーでした。

でもこの時期、実は、ドジャースで4年間実績を積み上げた黒田選手には、多くの球団から移籍のオファーがきていたのです。そして、交渉のテーブルについた黒田選手は移籍先に・・・

黒田博樹
黒田博樹

ドジャースと対戦しない、アメリカンリーグのチームを

という希望をだしたのだそうです。

ナショナルリーグで、カーショーと対戦することを避けたのです。「条件」 ではなく、「情」 を優先した決断力。

決まった移籍先を、カーショーに報告のメールをした黒田選手。「ヤンキースに決まったよ!」 カーショーからの返信は、「ヒロ、僕は来年から誰とキャッチボールをすればいいんだい?」

そして、その後のインタビューでもカーショーは、黒田選手の移籍を残念に思いながらも、彼の活躍を称えるメッセージを送っていました。

さすが! 名選手の男同士の友情は、熱いですね。

第一線で活躍した名選手にしては意外な、黒田選手の発言を次にご紹介したいと思います。
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苦しい野球人生だったという意味

日本でも海外でも、これだけの評価を得た黒田選手。

ありえない決断をして手に入れた野球人生は、誰もが羨むほどのものだと思っていました。しかし、黒田選手は、

黒田博樹
黒田博樹

中学生以来、野球を楽しいと思ったことは、本当に一度もない

苦しい野球人生だったと言うのです。その苦悩の本心が、とても感動するものだったのです。

少年時代、胸をときめかせてプロ野球を見に行ったとき、自分の応援するチームが勝つと 「きっと、僕が見に来たから勝ってくれたんだ!」 と思った。そんなことから黒田選手はプロ入り後、

黒田博樹
黒田博樹

僕にとってはシーズンのうちの一試合。けれども今日見に来てくれたファンにとっては、思い出に残る大切な一試合になるかもしれない。

と思うようになったそうです。

負けていい試合は、ぜったいに存在しない! だからこそ、打たれるのが怖かった。野球をすることは、常に恐怖との戦いだったというのです。

打たれる恐怖に耐えながら投げ続け、常に試合に命がけで臨む。これほどまでに、ファンの気持ちを考え自分の信念を貫く選手ってスゴイ! とまた改めて思いました。

ようやく手に入れた栄光

これだけ、勝利へ執念を燃やして戦ってきた黒田選手。2016年7月には、日米通算200勝という輝かしい記録も打ち立てました。そして、そのセレモニーで広島ナインが着たTシャツには、「耐雪梅花麗」 の文字が。

そういえば、今年、日本シリーズで広島と戦い日本一となった北海道日本ハムファイターズの武田勝投手が引退表明で発した「俺のために優勝しろ」 の一言も、日ハムナインのTシャツにプリントされていましたね。

数々の栄誉を手にした黒田選手ですが、ただ一つ手にすることができなかった栄光、それが 「優勝」 でした。広島カープ自体、25年優勝から遠ざかっていたのですから。

黒田選手などのベテランから学ぶこともあり若手選手たちも力をつけ活躍し・・・メジャーでもかなわなかったリーグでの 優勝 を手に入れたのでした。本当に、そう思ってあの優勝の瞬間を思いなおすと、感動の一言しかありませんね。

そして、投げるという恐怖に耐え一度も楽しいと思ったことがなかった野球人生について、黒田選手は最後に記者にこう語ったそうです。

黒田博樹
黒田博樹

今まで一生懸命野球をやってきてよかった

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さいごに

2016年、広島カープを25年ぶりの優勝に導いた立役者の一人、黒田博樹さん。

2016年10月18日、現役引退を表明しました。

黒田博樹という人物の評価が、日本でも海外でもスゴイのです。「情」を重んじる彼の、様々なありえないような決断力をご紹介してきました。

いかがでしたか?

常識とはかけ離れたいくつもの決断をしたことで、ドジャースで4年、ヤンキースで3年、安定した成績を残してきた黒田選手。日米双方の球界関係者やファンの大きな関心の中、最後の移籍先は・・・感動の 広島カープ でした。

座右の銘
「耐雪梅花麗」(雪に耐えて梅花うるわし)
意味:苦しまずして 栄光なし

苦しい時も、西郷隆盛が読んだこの意味の深ーい漢詩に支えられていたということでしたよね。

私も自分では「情」を重んじる方だと思っています。けれども、いつもどんなときにも「情」を重んじ、そのためにありえない決断をするという、この黒田選手のブレない「男気」には本当に感動しました。

こんな偉大な黒田博樹選手が、アンビリーバボーな決断によって得た世界的な評価には全く足元にも及ばない凡人の私ですが。

梅の花のように頑張って、花を咲かせるときが来たら、かぐわしい香りとともに私らしく美しい花を咲かせよう!

本当に本当に大きな勇気をもらいました。

余談ですが、私は昔から浜田省吾さんのファンです。2016年10月13日、同じくずっとファンでいるもぅ長い付き合いになる親友と神戸のコンサートに行ったときの話です。

広島カープファンで有名な浜田省吾さんは、25年ぶりの優勝ということでコメントを求められる機会があったそうです。

しかし、全国にはいろんなチームを応援している様々なファンの人たちがいるので、地方紙のみにコメントを寄せたと。

私は、これにもまた感動したンです!! これが、広島の本当のカープファンなんだろうな、と。これが「情」というやつなんだと。

これを読んでくださったあなたにも、私と同じような感動をしてもらえると幸いです。心のアンテナを張り巡らせて♪

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コメント

  1. なつよん より:

    ☆!(^^)!☆

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